私の仕事論

インタビュー

藤川 球児

「火の玉ストレート」を武器に20年以上ピッチャーとして活躍。
阪神のレジェンドとして名を残した藤川球児の野球人生に迫る。

1999年にドラフト1位で阪神タイガースに入団。その後、阪神の主軸に20年以上現役選手として活躍し2020年現役引退。現在は阪神の「Special Assistant(SA、特別補佐)」だけでなく、解説者や自身のYouTube開設など幅広く活躍。

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幼少の頃のこと
まず、僕自身、全然裕福ではない家庭であって、いわゆる最初生を受けて住んだ場所から今なお記憶に残ってる3、4歳頃の実家の場所というのはもう変わってまして。賃貸を繰り返したような、そういった幼少期だったんですけれど、一つ上の兄に付いて回るように遊んでいました。どちらかというと、周りの友達、環境が変わってしまうことで、地域になかなか密着できず「あ、うちだけ外されてるな。自治会の中でも。」というのは感じていました。それでも兄に付いていくことができたことで、そういったところ自分が避けて通れていました。ただうちの家庭って周りと比べて物足りなくて大変だなっていうことを感じていました。その後、妹二人が生まれることになって4人兄妹なんですけれども、家では殆ど口数が少ないタイプでしたね。
野球との出会い
野球と出会うのは、たぶんそれは父親から名前をいただいて、藤川は普通の名字なんですけれども、球児という名前で。兄は野球に全然興味がなかったのですが、父親は野球好きだったので、気付けば阪神タイガースや西武ライオンズの帽子を被っていたり、小学校入った時にはもう巨人が全盛期で。そんな中で「3年生から入部がOK」ということで野球部に入る権利が生まれてですね。それまでは兄が凄く身体が大きく、柔道をやりたいということで、一緒に柔道部に入っていたんですけれども、いわゆる当時の教育でして、体育会系で基礎練習、試合なしっていうところが、僕には苦手で。柔道をやっても線が細いし、兄貴は身体が大きかったのですぐ強かったのが僕には向いてない、面白くないということで、よくその柔道の練習が終わるのを待って、その後、川で夜兄貴と二人で水に入って遊んだりとかした記憶しかなくて。「おもんないな」と思ってたところに野球部に入れる学年になり、父親に「野球部に入ろうと思うんだ」という話をしたら、今もそうなんでしょうけれども、兄弟がバラバラの活動をされると、親が大変であるということで、兄貴に対して「やめなさい柔道を。 弟が野球すると言ってるから、野球だ」という風に言いまして。兄にはいまだに「俺はお前に譲った」と言われますけれど、そんな経緯があって野球に入れてもらうことができたと、やっぱり名前も球児だったので、父親は「野球するぞ」と言われた時にはもう「よし!きたか」という感じだったと思うんですよね。
父親がたまに遊ぶってなったら必ずキャッチボールでしたので、もう僕には野球しかないんだという風には思ってましたね。
野球に打ち込めた理由
得意だったんで。
先程言ったその地域になかなか染まれない中でも、小学校1年2年の時に周りのお兄ちゃんに、公園での野球に呼ばれて行った時に、上級生がいる中で1年生の自分が入ってやっても「うまいね!」って言われたんですよね。 それで、もうずっと家で壁に向かってボール投げて。 「お前確かに名前球児だしうまいわな」というのをやっぱ言われてたんですよね。 周りが「うまいうまい」と言うからもうその気になって、もう本当にこんなに自分の得意なことあるのかというような感じで、小学校3年生に入るまでのずっとやってたものが、その時に貯金になってました。
「目に見えた努力」ではなくて、「好きだからできた努力」であったのが幼少期ですね。後にそれもプロに入って打ちのめされるんですけれども。
自分を支え続けた思い、幼い頃に感じた「劣等感」
今でもありますけれど、やはり劣等感という「周りと比べて足りてないんだ自分は」っていうことで、まず「何くそへこたれない」っていう気持ちが養われている部分と、その感情というのは時に危険な感情でもあるわけですね。何くそっていうのが周りを寄せ付けなくなってしまったり、例えば、時にはルールを守らなくて学生時代に先生に呼び出されたりとか、そういったことも経験するわけですね。
僕の場合、野球部ということで誰かがミスを起こせば出場停止になるとかいうリスクを抱えながらその社会と協調してさせてもらうことができたので、いわゆる大人になれたわけですけれども。現役の時も勿論そう。阪神タイガースと言われる凄くファンが熱気にあふれていて、プレーが伴わなければ「代わってしまえ、辞めてしまえ」と言われるような世界っていうのは、時に自分を打ちのめしに来るんですけれど、もう本当にギリギリの状況に自分がなった時に「関係ねえよな。自分がやりたいだけだもんな。」というのが必ず最後に出てくるんですよ。特に今だったらSNSはたくさんあって、このインタビューを見てる皆さんも、全く気にしない人はいいんですけど、SNSでの自分の評判が気になるんだけれども、立ち向かわなければいけない、立ち向かってる人ってどうやって対応してるんだろうといった時があると思うんです。自分であれば現役の時、「あいつ、何でこんなとこでストレートばかり投げるんだ」って100回中1回しか打たれてなくても言われると、その時は相当悩みました。
だけど、悩んで寝ても、次の日が必ず来るわけですよ。で、その同じギリギリの場面になった時、またそのボール選んでるんですよね。ストレートを。で、結果が残るわけですよ。出たら皆何にも言わないんですよ。ということは、人というのは何か言いたい時だけ意見を言うと。そうすれば、例えば日本の国民が1億3,000万人として、1万人「お前は何してるんだ。」10万人「お前は何してるんだ」って言ってきたとしたら、10万人しか言ってなくねっていう、あと何億人いるって、あと1億何千万人残ってるって。その他は興味ないのか、もしくはそれでも戦ってるのを影で見てるっていう風に見るようにしていて、逆に言うとその10万人、確かに非常に多い意見ですよ、厳しい意見。
ただ、この方達もしかしてどこかにぶつけなければ、自分の人生が止まってしまいそうなんじゃないかっていう風に思うようになったんですよ。だから、どちらかというと「あっ、この方は強い。この人言っても大丈夫なんだな」と思われてると思って、そうかどうぞ言わせてあげようという風に変わったんですよ。
言ってくる人達に向かうように立たないっていう、止めようとしない。現役の時から、あ、言わせてあげればいいんだ。この人たちは今日1日を満足する為、今一瞬を満足するね、苦しかったからこそ、その1日が最後のはけ口で、きらびやかな世界とか派手に見える世界のところに来てるわけで、これは演じてあげなければいけないというとで、すっと流せるようになったんですよ。だから時間が過ぎたら消えてると。全然そこに対して怖がることがなくなったというか。それはやっぱりどこかで何くそって劣等感があった自分がいたんで、劣等感の中で立ち上がる為には愚痴も言うし、人と口喧嘩になったこともありますし、子供の時なら喧嘩になることもあったけれども、何かその中で許されてきた幼少期があったもんで、大人になってからそういった人の気持ちも分かるし、そうならないためにどうすればいいかっていうことも、こう捌けるようになりましたね。色々なことがありましたからね。
阪神へ入団当初、周囲の評価を追い求めてしまった自分
めちゃくちゃ、それが邪魔だったんですよ。周りから評価されたい、されなければまずいっていう意識が自分が一番成長できなかった時間だったんですよね。 これを経験できたのが、プロ野球の阪神タイガースにドラフト1位で入ったということが一番の理由で、4年目ぐらいまで全く結果が出なかったんですよ。でも自分のことを見てくれている、いわゆる2軍という自分の小さな部署では、成果が出たわけですよ。
いざ商品となって1軍に出た時にもう借りてきた猫みたいに評価してくれる人のところばかり、こう成果を出して「いいぞ、球児いいぞ」って言われるところで、ほらほらって、でもそこでも評価を受けられない人いるわけですから、すごく小さなことで自己満足の繰り返しをしていたんですね。 だけれども1軍の舞台というのは、猛者達がたくさんいて11球団他に対戦相手がいて、全国放送で放送されて、2軍の試合は全国でもまったく報道されませんから。だけれども2軍の試合でも新聞には出ますから、そんな小さな記事を見るだけで満足してしまった自分がいて。大きなところでも同じことを評価されるんじゃないかとこう思っていくけど、打ちのめされて。やばい評価されてない、どうしようどうしよう。ただ、もうクビになる。もうドラフトで新しい人材がどんどん入ってくる中で期待されない、ってなった時に、ん?期待されたいがためにやってた自分が何かおかしいなとなって。僕は早くに結婚していたので、嫁さんに「ダメだったら帰るわ。田舎に帰ろうっか」と言ったら「いいよ。全然帰ったらいいやん」って言われて、そっか、じゃあ誰の言うことも聞かずにやろうと変わったんですよ。
結果が出始めた04年、05年
2004年の途中からなんですけれども、その何くそ、悔しい、劣等感。別にいいや周りどう思われてもって思えない時期から思えるようになった瞬間に、今度真逆なことを思うんですね。
誰からも評価されたくない、関係ないって思った瞬間に、記憶がないぐらい全力で走ってました。2005年に80試合で日本記録も投げるんですけれども、いやいや止まらない、止まらない止まらないという。だってこれまで止まってたんで。止まっちゃいけないし、止まることを恐れてはいけないし、周りは「待て待て。危ない、危ない。」って言う。いや関係ない、だってどうせ、もういいって思ってた人生やん。怪我したら辞めると決めてるから守らないんだって。怪我して辞めるのは本望なわけだから。
05年から阪神退団までの8年間
無我夢中だったんですけれど、無我夢中にはやはり理由がありますよね。無我夢中になってやらないと、やっぱり相手は打とうとしてきますし、時にそれこそ評論家の方から「ちょっとボールの勢い落ちてきたな」というような声があるんですけれども、とにかくそういうシーンの時に、「関係ねぇと、俺がやってんだ」と思ってやってました。あと誰かが悲しむから頑張るという人もいるんですけど、僕は違って後ろ指をさされたくないっていう。なら、こじつけさえ作らないようにしてやろうという。全部の穴と見える、言われるようなシーンを塞ぐ。とにかく調子に乗るとかじゃなく乗らない。絶対アゴを上げないっていう。全く記憶がないですけど、それぐらい必死でした。
僕40歳まで現役をするんですけれども、僕はいわゆる野球選手の30歳というのは、一般サラリーマンの世界でいうところの45歳ぐらいだと思ってるんです。だから速く生きてるという風に思ってまして、僕の活躍するまでの5年間は恐らく社会人になって30歳ぐらいまでだと思うんですよ。それから、僕の8年間というのは、社会人にとっては45歳ぐらいまでの15年ぐらい。 30歳からの15年間くらいの濃さだと思うんですよ。 「凄いね君」って沢山の先輩に言われました。「球児なんでこんな球早くなったの。打てないよ、球児の球。」って。でも「そうですか。でも明日は分からないですよね」って思ってました。 その時、僕の目を見てますからね。どんな表情するかは分かりますから。誰のことも信じてないです、はっきり言えば。信じなくていいですよ。勝手に付いてくるものだと思ってるんで。評価とか人っていうのは。誰かが言うからこうしようっていう指針みたいなのは、会社のテーマがありますけれど、自分は違うと思ってました。会社に雇われてないと思ってましたから。 だって会社は私をクビにしようとしているわけですから。成果が出なければ毎年新入社員が入ってきて入れ替えるわけですよ。 そこに差し替えられる可能性があるって思った時に俺は走るしかないと。クビになりそうな選手、新しい人が出てくるから教えてあげたくなるんですよ。そんな感情に年々変わるという8年でした。
MLBへ。何のために戦い続けたのか。
一番重要なのはサラリーじゃないってことなんですよね。お金じゃないということなんです。人がどう生きるかっていうことが重要で、そこが結構出てくるんですよ。幼少期のその劣等感というとこと、どんな人が嫌だったのかっていう。嫌な人になりたくないわけですよ。お金を沢山持っていても意味なくてお金を人のために使えない人も格好いいとも思わないし、人のためにお金を手段として使う人も嫌いだし。ってことは、お金に対する評価はあまりいいもんじゃないかもねっていう。人が評価してお金というものを対価として決めて払うわけで。欲しいのは当然ですよ。生きていかなければいけないので。でもそのために何かをするということはあってはならないんじゃないかなって、僕らの世界は子供の頃からやってた野球なんで、そこの本質に目を向けなくて、どうなるんだろうっていう。アメリカでもう一回そういう経験したんですよ。日本で戦ってて、夢を追って、どっか心の中でよし30億50億100億。実際、3年間で30億円ぐらいの契約だったんですよ。でも、やったら払ってあげるっていう世界なんですよね。
怪我した瞬間に、いつまでこれするんだろうと思って。また周りは指差すし、お金はもらえるし、心は不幸だし。「辞めじゃい」っていう。「これは俺が生きたい人生じゃない」ってということで日本に戻ることを決意したんですよ。その世界で言ったら負けかもしれないですね。「よし、日本人一人を追い返したぞ」って。競争社会ですから、ピラミッドの上の部分だけなんで、入れなければって。俺は違うわと思ってね。で、日本のプロ野球に戻るのか、「いや、ちゃうわ」と。地元に戻ろう。俺が生きたいのは、大事にしたいのは生き方なんだと、自分がどう生きたかをやらないと気付いたら周りを置いていっちゃうんですよ。ここでもう一気に考え方が「よし勝った!」と思いました。自分に勝ったと思いました。大人になってきた社会人で野球を頑張って、よし自分が狼煙を上げて世の中に立ち向かってやってやろうっていう自分に対して勝ったと思ってました。他人は負けやと思ってますよ、その世界の人たちは。ただ負けるが勝ちいうのもありますからね。自分が決めたらいいですもん、勝ったか負けたは。苦しかった自分を捨てることで、こんな勝者のメンタルになるんだと思いました。
『藤川球児』は何故成功できたのか?
今の自分から見たら、とにかく自分に厳しかったと思いますね。今の自分は言えないですけど、僕はたまに「彼」と言うんです。もう一人の自分だと思ってるんで。もうその選手はそのまま置いておいてあげた方がいいんで、今の僕じゃないので。解説の時たまに出るんですけど、その時はやっぱり言葉で表現できないですね。めちゃくちゃ厳しいですね、グラウンド上の話になると。それはもう言葉の必要はないですね、仕事っていうのは。やるしかないです。そんな甘いものではないです。どこまでいったって好きであることは重要だったかもしれないですけれども、僕らぐらい、その藤川球児という選手が残した功績ぐらいのチームへの貢献度とか、応援してくれたファンの歴史が欲しければ、今の僕の話ではなくて、その選手がやった行動を見るしかないです。言動っていうのは僕らの世界はないのかもしれない。仕事というのは。映像があるだけありがたいですけど、あの時流した汗とか、あの時の1球とか、うまくいかなかった時の悔しがって帰ってる表情とか、後ろの背中とかは、言葉で表現できないですね。だからシンパシーを感じなきゃいけないんです。だから、難しいですね言葉というものは。言葉じゃないの方が重い時はあると思いますね。「感じんかい」とね。
引退を決めた時の思い
40歳になった時の藤川球児が、もうあの戦いまくった藤川球児ではなくなってきていたので、これは捨てないと失礼だと思ったんですよ。応援してくれてた人もそうだけれども、もっと大事な自分に。もうこのままやめてあげないと、あれだけ必死に頑張った人に失礼だって。僕、客観視してたんでとにかく。もうあまりにも仕事の自分とプライベートの自分が組み分けが上手になりすぎて、だんだんと選手の時間も短くなって、気持ちも凄く薄っぺらくなっていたんで。
── 球児さんの仰る彼に失礼だということ?
そうです。会社にも言いました。会社から「もう一回2年契約でお願いしたい」って言われて、「自信ないです、1年でも分かんないですよ。明日辞めるって言うかもしれません。それぐらいしか残ってないです。どうしましょう。」と言ったのですが、「そう言わないで。だったら1年でもいいからやってくれ。その日が来てもいいからやってくれ」。て会話して、出てこれるパワーと体力気力が充実してたら別だけれども、どちらも伴わないと思うと、スパッと「引退させてもらいたい」と当然のようにできたし、だから最後に清々しくファンの方にお礼ができた、感謝伝えることができた。で、まぁ気持ちよく送ることができたというか。それが40歳なので、いわゆる一般の世界で言うと65歳なのかなとは思いますけどね。
指され続けた『後ろ指』をチカラに
指せるなら指してみなさいって、後ろ指をね。どうぞご自由に。そこにはもういないっていう。多分後ろから指さされても、多分届かないと思います。なぜなら指された瞬間に遠くへ行こうとするんで、僕自身が。極端に言ったらパワーに変わっちゃうんですよ。すごく嫌なんですよ、後ろ指を指されることが。でも振り返った方が安っちいんで、まあ振り返らないですよ。
あ、届きそうな感じにいるんだと思うと、はい遠くに行きます。ありがとうございます。あとから考えたら、めちゃくちゃパワーに変わってるんで。その劣等感っていう力に変わってて、もう一方で優しい自分を育むっていう。人が目の前で言えないようなことですから、後ろ指は見えてないわけですから、それを感じる力が養われているので。お~来た来た!俺は遠くに行きますよって。
その代わり自分が人に後ろ指をさす時は、めちゃくちゃ走ってる人に同じように指すかもしれないです。「ほら、ほら、進め進め。止まりそうだぞ」って。若いできる人にはそうしたくなるんですよ。「お前止まりそうじゃん」って。そういう人が、会社が離したくない人材なんじゃないですかね。数字は残すし、そういったやつまで伸ばそうとしてくれるっていう。それが僕の今の年齢じゃないですか、社会、会社における。
若い選手らに何を伝え、残していくのか
今おっしゃられた社会人になって1年目~3年目、プロ野球の場合なら18歳から、企業の方でも大学卒で22歳から始まるケースもあるわけですけれど、どちらにしても先に成功してるのか、後から成功するのか、必ず壁にぶつかります。もうたくさん見てきました。僕は先に損していたタイプだったんで、この野球界で見てきたら、先に苦労してる人の方が長いんです。でも、それを変えたいんです。先に成功してる人が苦労に差し掛かった時に支えてあげることはできます。苦労したことがあるから。ではなくて、今は求められてるリーダーと言いますか、その存在というのは、今、みんなが一番できないことだと思うんです。成功した人を咎めたり、気付かせてあげる、成功し続けることを助長するっていうのがみんなできないんです。みんなやらないんです。ええよ、どうせ落ちてくるよ。それでは会社にとっては損なんですよ。後から行ってる人も得する。だってじっくりやれば出てくるわけですから。先行ってる人もぶつかるまで、ここは争いますからね。
だけど、もう一つ上の部署では、先行ってる人も伸ばす、後ろから来た人もすごい急成長で伸ばす。まるでフリーエージェントで取ったかのような、中途採用で取ったような選手が、バコーンと伸びるわけでしょう。それで企業は中途を取るわけですよ。今までの悪い経験を新しい企業に来た時にパッって変わって、これでいいやと思ってる人たちを変えてくれる存在。これどちらも必要で。僕はそこで先へ行ってる選手たちにアプローチするようにしてるんですよ、映像を使って。先に成功を収めてる選手にはあえて全体の前で言うかもしれないですね。みんなが聞いているところで、「お前しかおらんだろう」って。僕はそう言われたし。「え、これだけやってんのに。できてないやつになんで言わないの」って思いました。だけれども、5年10年したら気付きました。引っ張れってことだったんだなと。満足しちゃうと、みんながそこまでしか来れないじゃんって。突き破って、自分が突き破らないと来れないじゃんって。それで気付いたんで、僕はもうあえて言いまくってますね、言葉を。経験からくる言葉を拾える人材を作りたい。
この人が20分しゃべって、1時間話して、その中でもメモ取らなくても、あの時あんなこと言ってたよなという風に、感情とかを「この時、あの人のこんな言葉や」っていうのを拾える、自分が人間になりたいし、そういう人材を作りたいです。 置いておきたいです、言葉を。彼らが通る道に。どれだけ成功してても寝れない時間もあって、めちゃくちゃ寝れた人が寝れない時もあったりするわけです。寝れない人のために、何か置いておいてあげたいんですよ。自分が寝れなかったから。
それは何でかっていうと競争をするというより、誰かからの評価が欲しいのではなくて、自分がどうするか、自分がどう生きたいかっていうところに気づき始めたんですよね。あの、人は誰しも人を評価したりするので、そこにどう抗うかっていうことをするよりも、評価をしてる人の方を向かない。自分が評価されたとしても、見向きもする必要がないという。自分が経験したことを置いていく。それがパワハラだって言われることがあるのかもしれないですけれども、それがパワハラにならないような言い回し、言葉の独特さを自分で学ぶ。で、きつく言わなくてもどっかで言葉を拾ってもらえるシーンが、25歳の人が45歳でもいいと思うんですよ、それが拾える時があっても。僕はそういう言葉を、もし誰かがこの映像を見てでもそうですけれども、感じてくれる人が、一瞬でもいたら、それだけで生きた価値あると思ってるんですよ。
若い皆さんへ伝えたいこと
あくまでこれ僕の個人的な意見なんですけれども、いわゆる会社の上司の方とか先輩方が言い辛いことを僕は言わせてもらうとすれば、恐らく若い方は自己肯定感というところで結構低いんだと思うんですよ。
自分で、志高く、自己肯定感を引き上げておかないと誰も上げてくれないんだって。どんな生活だって良いですよ。自分で上げておくことが必要なんです。周りからそう見られることで、勝手に周りがついてきます。何で自分がって、誰かについていきたいじゃない、自分がそうなることで、勝手に仕事一つ任されたりするんです。ちょっとこれやってくれないかって、いい表情してるからちょっとやってみてくれよって。嫌ならそうしなくていいですよ。それで自分が立ってるんだったら。そこの自分の押し引きを誰かに委ねないっていうのが非常に大事ですね。
「なんで俺ばっかり怒られるんだ」ではなく、「俺が怒られてるやん」って思える人は活きます。あなたが思う幸せじゃない幸せな形をみんな持ってます。だから自分なりの幸せを見つけることですね。同じように見えてみんな違います。僕もやっぱり自分の子ども達を見てたら、あるところでは子どもが「幸せだよ」って母親に対して言っている。でも、僕には「足りない」って言うかもしれない。逆もそうです。こんなん人って勝手に決めるんですよ。僕はマイナスの意見を自分に言ってきてくれてる時が、俺ってこんな男になったんだって。だから支えてもらってるから「あんたこんな良いとこあるよ。」って言われないやつになれ。そうじゃなければ人の上には立てん。人から信頼はもらえないです。「もらいたくないです」って言うんだったら、その道もある。それはまた本読め。どこかで勉強しなさい。
僕の住んできた世界はそうじゃない世界だったから。競争してるような中なんだけど、実は競争を俺の中ではしてないんだって思い続けたんで。強い自分を作るためには、甘えんなってところと、自己肯定感が低いやつは実は周りから見たら幸せに見えてるんだっていうことに気づいてください。どこ住んでも幸せだって、なれるだけの生き方を見つけるチャンスはまだありますと、言いたいですね。
今の目標
直近ではまず置いていないです。直近という物事が変わりますから。僕は今42歳ですけど、75歳までまずは奥さんと共に健康で生きること。そのために自然を相手にする、それからはどんどん都会から離れていくと思うんですけれども。なぜそれを設定してるかというと、その間にもっと世の中に揉まれてやろうって。いや、揉んでやろうって。こっちから。「こいついらんわ」って言われるぐらい、いらんわっていう声が10万人来たら、いる人どれだけいる、欲しがってる人いると思いますか。
── 1億2,000万引く10万ですね
そうなんですよ。めちゃくちゃ楽しみじゃないですか。そのために戻る場所は見つけておきたい。だから奥さん大事だし、家族はすごく大事です。そういった思いがあるので、どんどん戦いの場に行く準備をしてるのかもしれないですね。何か自分でそんな気がしてます。最初休まる場所欲しいと思ったんだけど。気付けば、違うこれ戦うための準備なんだっていう。家へ帰りたいと思っているのは、家帰って寝たいと思ってると、疲れたからと思ってるかもしれませんが、これ実は違くて、戦う準備ってことに気付きますよ。仕事やめて家帰って寝てみてください。めちゃくちゃ暇で本当の生きてる心地がしないですから。っていうことを残しておきましょうか。
野球選手以外にしてみたい仕事
「逃げ道のない仕事」ですね。これはね、何やっても逃げ道ないんですよ。そういう風に生きるとめちゃくちゃ楽しいです。人へ逃げない、誰かの責任にしない、全て自分で頑張る。散歩行くのも自分で行くし、力抜きたい時は自分で抜くし。ずっと力入れっぱなしってことじゃないですよ。これ仕事でしょう。仕事って絶対力入るんですよ。対価ってやっぱり人からの期待だったりするんで。その他でいくらでも自分で人間力を磨いてリラックスするけど、逃げられない仕事がいいです。他で抜きどころを作ってはおけるので、仕事は難しい仕事が来てくれる男になりたいです。
「えー!無理やん」っていうような仕事が欲しいです。まだ出会ったことのないってことですけどね。
そこで、自分のギリギリが見てみたいです。俺って限界点何なんやろうって。一回しかない人生なので、明日病気になるかも分からないんですけれども、どこで潰えてもぶつかってみたい。今、こうやってお話してる時も一つ一つの表現とか言葉に責任が伴うわけですよね。その一言も勝負したいです。はい、必ず勝負したいです。
── ありがとうございました。

編集者コメント 劣等感。これは多くの方が持つ感情だと思います。そして、この劣等感をばねに日々自身の成長に励む方も少なくないでしょう。私もその人です。その劣等感から生み出したパワーを「(後ろ指)指せるなら指してみなさい」と表現された藤川さんの選手人生における覚悟を強く感じました。そして、野球選手でなくとも「逃げ道のない仕事」を求める藤川さんに、人として尊敬の念を抱かずにはいられません。是非、野球ファン以外の方にも読んで頂きたい内容です!


藤川 球児

「火の玉ストレート」を武器に20年以上ピッチャーとして活躍。
阪神のレジェンドとして名を残した藤川球児の野球人生に迫る。