魔裟斗
「クラウスに勝てたきっかけは・・・」K-1で2度世界王者になった魔裟斗。
“反逆のカリスマ”が語る、波乱万丈人生と勝利への歩み方
元ISKA世界ウェルター級王者・K-1 WORLD MAX 2003・2008世界王者の魔裟斗さん。K-1王者、そして引退後に迫る波乱万丈の人生を経験した彼が語る、勝利・成長への歩み方とは。
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生まれた時は4,700グラムで生まれてきたんですよ。
当時その病院では一番大きな子どもで生まれてきて、関節という関節がもう全て肉で、輪ゴムで留めてるんじゃないかくらいな赤ちゃんだったんですね。
幼稚園の時に、家のすぐ近所のスイミングスクールで水泳を始めたんですよ。両親が小さい頃に水泳をやっていると風邪を引かないとか言って。あとは多分スポーツ選手にしたかったんですよね。僕の子どもに対してもスポーツ選手になってほしいって言っているぐらいなんで。だから3歳から中学3年生までずっと水泳をやってましたね。他にもマラソン大会があれば、大会1カ月前から父親と朝練みたいな、とにかくスポーツに明け暮れた、スポーツが大好きな子どもでしたよね。
小学生の頃は週7回。日曜日もお正月も大みそかも朝練、午後練って1日2回練習するような小学生でしたね。普段でも3、4キロ泳いでて、夏休みになると、1日7キロ泳いだりとか。とにかく水泳をやらされてたっていう方が近いかもしれないですね。好きを通り越して最初苦しくて辛すぎて。小学3、4、5年生くらいの時は選手コースだったんで、毎月試合に出てたんですね。その時住んでた沖縄では年齢別で一番速くて、先生も期待してたんでしょうね。なので、スーパースパルタですよね。今の時代だと理解ができないくらいの。先生が竹刀を持ってプールサイドに椅子置いて座って、一本一本タイム計ってるんですよ。遅いと、泳いでるところにスリッパとか飛んできて凄い怒られるんですよ。今じゃもう絶対アウトじゃないですか。でも昔はOKだったんですよ。先生怖いし、泳いでるの苦しいし、半べそかきながらいつも泳いでたんですけど、僕の基礎っていうのはそこでできたなと思ってるんですよ。体力と根性。すっごいきつかったんですけど、今思えばあれが原点です。
子どもの頃からしたら「あんな頑張ったのにオリンピック出れなかったな。無駄だったな。」と思うんですけど、44年の人生を振り返ってみると、あの時の努力したことが、やっぱり格闘技をやってた頃や、格闘技を辞めた後の人生にも凄い大きな影響をもたらしているなと思ってるんですよね。
最初は、高校を辞めると親を説得するただの理由です。学校を辞めます。はい、わかりましたっていう親ではないんで。だから、子どもながらに考えた、自分が「ボクシングをやりたい。何かやりたいことがある」って言えば、辞めさせてくれるかなっていう、ただ浅はかな考えで。でも、もちろん「はい分かった。じゃあ辞めていいよ」なんて言わないですけど、やっぱり親って自分の子どものことをよく分かっていて、もう親も賭けるしかないと思ったんじゃないですかね。格闘技で成功する以外、この子の道はないなみたいな。そうなったらもう逆に応援というか。
それで父親が三迫ジムとヨネクラジムと協栄ジムの3つを見に行って、ヨネクラジムが一番良さそうだなっていうことで、父親がヨネクラジムに連れて行くんですよね。
父親もボクシングの素人ですけど、ヨネクラジム見に行った時に、当時やっぱ世界チャンピオンもいたし、日本チャンピオンもいっぱいいたし、凄い勢いがあったんですよね。で、このジムがいいんじゃないかっていう感覚的な感じですね。
── ヨネクラジムではどのくらい打ち込まれたのですか?
その時は、そこまで正直打ち込むぞって思いはなかったです(笑)学校を辞める理由だったんで。でも親はもうそれも分かってるんですよ。学校辞める理由だなってお見通しなんで、逃がさないぞということでジムまで固めて、仕事も職業紹介所みたいな所に連れていかれて決めて。そこまで段取りしてたんですよ。
工場のアルバイトでしたよ。やっぱ15歳で雇ってくれるところなんてあんまりないじゃないですか。だけど、そのアルバイトは1日で辞めちゃったっていう(笑)とりあえずボクシングはヨネクラジムに入ってやってましたね。2年しか続かなかったんですけどね(笑)
── 何故辞められたのですか?プロテストも放棄されたとか。
当時のヨネクラジムって本当にプロの選手が多くて、1回の練習で200人くらいが一気に練習するんですよ。そうするとサンドバックの取り合いだったり、スパーリングする順番が回ってこないんですよ。毎回「スパーリングやらしてください」って行くけど、やっぱプロの選手が先になるわけですよ。
でも、先生からはちょっと期待されてたんですよ。期待されてプロテストを受けることになったけど、こっちからすると、スパーリングできない状態でプロテストなんて受けていいのかなと思って。絶対落ちたくないんでこの状況で受けるのダメだろうと思って、プロテスト行かなかったんですよ。そしたら、ジムの会長直々に「どうした?」って電話があって、他の先生にも捜されたけど、こっちとしてみれば、そんな大事なプロテストの前にスパーリングやらせてくれないんじゃダメでしょう、と思って辞めちゃったんですよね。水泳の時は、大会前の準備半端じゃなかったんで、これっていうことに対してはしっかり準備しないと嫌なんですよね。
ボクシング辞めて、しばらくはアルバイトしながらダラダラ過ごしてたんですよ。その時に、中学時代の一つ下の後輩と久しぶりに会ったんですよね。そしたら、その後輩が何か良い身体してるんですよ。で、「お前なんかやってんの?」って言ったら、「いや、最近キックボクシングを始めたんですよ」って言われて。その瞬間に細マッチョで色黒のムエタイ選手が頭の中に出てきて(笑) かっこいいなと思ったわけですよ。しかもジムも家からすぐにあって、「じゃあ俺も連れてってくれよ」って言って、次の日に行ったんですよ。埼玉県の新座市っていうところにある小さなジムだったんですけど。
ただ、元々いたジムとのギャップが凄くて「ジムってこんな感じ?」っていうくらいのジムだったんですよ。入ったらなんかご近所のおじさんおばさんがエクササイズしてて、「全然違うぞ、ボクシングと(笑)」とか思ってました。で、サンドバック叩いたら会長がびっくりして、「お前プロでやれ」って言われて。でもこっちは有り余っている力を発散させたかったから、ちょっとジムに入っただけで、プロでやる気はなかったんですね。でも、毎回ジムに行くたびに会長が、「プロでやれ。プロテストを受けろ」って言ってくるんで、根負けした感じで。「しょうがねえな」みたいな感じでプロテストを受けましたね。じゃあ合格して。合格したら、もう会長はデビュー戦を決めてきちゃったんですよね。
そんな感じですかね。「原石見つけた。こいつは磨けば光るぞ!」みたいな。しかも会長、デビュー前から「すごいのがジムに入ってきた」「こいつは天才だ」って関係者に言うんですよ。その中でデビュー戦決められたら、自分からするとすごいプレッシャーなんですよね。
でも、会長は「お前のパンチが当たれば倒れちゃうから大丈夫」って言うわけですよ。僕もまだ18歳の子どもで、会長の言う話を鵜呑みにして、「ああそうか。とりあえずやってみよう。」という気になってやることにしたんですよ。
本当に1ラウンドKO勝ちで勝っちゃったんですよね。だから、自分でも天才と思って調子に乗るじゃないですか。そこで「ああ、もう無敗のまま俺はチャンピオンでスーパースターになるぜ」と思い込んじゃったんですよ。会長も天才だって刷り込むし。そう思い込んでたら、デビュー戦から2カ月後に2戦目が決まったんですね。その相手が、小比類巻っていう選手で、「またパンチで倒しちゃおう」って思ってるわけですけど、あんまり練習しないんですよ。(笑) 遊びの方が好きだったし。結果1ラウンド目の試合が始まっても相手が倒れないんですね。しかも1ラウンド終わった時点でもう疲れちゃって。3ラウンド目始まったら立ってられなくて、結果KO負けしたんですよね。終わった瞬間に控え室帰って、当時子どもだったんで「会長ウソついたな。何が天才だよ。もう辞めた」みたいに思ったんですよね。自分の中では、無敗のままチャンピオンになって負けた時が引退の時期って勝手に決めてたし。そこからはまたダラダラして、たまにジム行って、を繰り返してましたね。
そもそも最初ボクシングのチャンピオンっていったら1試合何千万とか何億円とか貰うのかな、みたいなイメージだったんですよ。でも、実際チャンピオンになっても30万円ぐらいしかもらえないわけですよ。30万円じゃな、と思ってたけど、チャンピオンになった時に、ちょうどテレビ東京の番組で『格闘コロシアム』という番組が始まって、そこのイメージファイターに選ばれて、毎週僕を追いかけてくれるんですよ。そこも運が良いんですよね。
半年間ぐらいでしたけど、やっぱりテレビの力ってものすごくあって、キックボクシングのチャンピオンだけど普通に町中を歩いていると声を掛けられたりするようになるわけですよ。
そうなったときに「俺、これでいける」っていう気がしたんです。人生を何をして生きていこうとかってあんまりなかった、漠然と目的もどうやって生きていくかも決めてなかった子ども(魔裟斗)に、「これだ」っていうのがその時に見つかったんですよ。
それからキックボクシングを趣味から仕事に変えて、これで成功しようと思ったんですよね。そこからはもう練習の鬼に変わったんです。
でも、キックボクシングのチャンピオンだったらお金にならないなと思った時に『K-1』がやってたんですよ。『K-1』って1993年からやってるんですけど、2000年頃って凄い盛り上がってたんですよ。東京ドームで試合やったりとか、リングサイドにはいっぱい芸能人がいたりとか、優勝賞金5,000万円とかをテレビで見てたんで、ここだなと思って、今までいたキックボクシングをやめて『K-1』に出ようと思いましたね。
K-1 の魔裟斗さんといえば、アルバートクラウスとのリベンジを果たして日本人初のチャンピオンになったと思いますが、リベンジという壁をどうやって乗り越えましたか?
まず相手の研究ですよね。相手の研究をして、自分に足りないところをまず見つけ出す。見つかったら、その相手に勝つためのことを磨いていく。クラウスに勝つためにはどうすればいいかって考えたことを反復練習ですよね。僕、クラウスに勝つためには、1発決め打ちしかないって思ってたんですよ。1発クラウスが右フックを打ってきたら、ブロックしてそのまま左フックを返す、この決め打ちしかない。もしくは、今の魔裟斗がクラウスに勝つ術はない、そういう気持ちだったんですよ。だから簡単に言うと、勝つための術をひたすら練習したんですよね。その結果、そのパンチがドンピシャで当たって勝ちましたね。
その後の2度目の優勝やタレント活動など、成長を続けることができたコツは何ですか?
オーバーワークにならずに8割で走り続けることですね。8割でずっとやり続ける方が強いですよ。
若い頃は「今日頑張るぞ」みたいに気合い入れて練習する時もあるんですけど、基本1日12ラウンドの練習のところ気合い入れて15ラウンドやっちゃう時もあるんですよ。そしたら次の日どうなるかというと、疲労で動けなくて練習休んじゃうんですよ。たったの3ラウンドで変わるんです。
チャンピオンになった後って、映画とかバラエティー、イベント、CMといっぱいやって、プラス格闘技の練習があったんですよね。その時も、「今日ちょっと仕事で練習休んじゃったから、次の日取り戻そう」と思って15ラウンドやっちゃうんですよ。そうすると次の日もっと動けない。動けなかったからまた取り戻そう。もっとやろうってオーバーワークになってくるんですよ。そうすると、本当は週6回の練習が5回、4回になったりするわけですよ。またその分1日で取り戻そうみたいな。それってもう悪循環で、だから80%ぐらいでずっとやり続けることが非常に大事だなと思いますね。
それもきっかけは、当時新しいトレーナーに「魔裟斗は、練習は一生懸命やるけど、練習以外の時間の使い方が悪い。強くなりたいんだったら、ずっと練習しろ」って言われたんですよね。やりすぎなくて毎日継続っていうことを教わって、その通りにやったら、本当に自分の調子が良くなって、強くなっていくのも実感しましたね。
多分仕事も気合いで頑張って毎日長時間残業とかしていたら、絶対オーバーワークで嫌になっちゃいますよね、人生今100年ありますからね。
やっぱり、男としての責任感が強くなりますよね。子どもができると、さらに強くなりますよね。 まず子どもってお金かかりますからね。でも何かそれもいいなと思ってるんですよ。頑張れていいなみたいな。自分一人だとあんまり頑張れる気しないし、原動力になっていいなと思ってるんですよ。子どもが3人いるから、よりお金が掛かるからってしょぼくれちゃいけないな、その為に稼がなきゃなんだよなみたいな。
僕、引退して2年間くらいっていうのは、選手の時の余力で仕事が貰えたんですけど、その余力だけで努力してなくて。結果、3年目から仕事がなくなって凄い暇になるんですよ。
暇だなと考えながら生きてるうちに子どもが生まれて、こんな暇してるのも良くないな、みたいに思って。さらにお金もなくなってきて、「もう一回頑張ろう」と思ったんですよ。
「じゃあどうやって頑張る?」ってなって出てきたのは、キックボクサーの最初の頃で、全日本キックを辞めて『K-1』 に移る時、最初は練習場所がなかったんですよ。その時期にちょうど東京に引っ越してきたんですね。マンションだけ用意されたんですよ。でも、やることない、俺は何をやってるんだと思うわけですよ。地元に帰って普通に仕事しようかなとか思った瞬間もあるんですよ。だけど、「何の為に俺は今ここにいるんだ」って考えた時に、『K-1』 に出るために東京に来て、5,000万とか1億稼ぐんだ、その為に俺は出てきてんだな、と思ったんですよ。で、その時やれることをやるしかないなと思って、走ることとシャドーボクシングを始めたんですよね。今できることを一生懸命やったわけですよ。その結果、練習場所ができて『K-1』に出て、チャンピオンになることができたっていう過去があるんですよ。
だから今は「やれることを一生懸命やる」と思ってますね。やれることを一生懸命やってた結果、また仕事がきたりとか、結果を出していくと、今に繋がっていくって思ってるんですよ。
今、目標はないんですよ。目の前の、今日の仕事にベストを出す、ただそれだけです。今にベスト。今にベストを出していくと、それを見たまたどっかの人から仕事が来たりとか、繋がっていくわけですよ。今、目の前にあることを一生懸命やることが未来を見るより大事なことで、1個の点を先に繋げていくみたいなのが、良いんじゃないかな。
現在、解説者として“神解説”とも言われてますが、意識していることは何ですか
解説者の時、自分がリングにいる感覚で見ているんですよね。すると入れられる側からしたら「これ狙ってくるんだろうな」っていう読みがあるわけですよ。だからやられる側の気持ちでもいると、「これは来るぞ」みたいに思ってると、来たら当たらないわけですよ。そういった読みが、選手時代にいろんな技の引き出しも持ってたんで考えられるんですよ。
もしかしたら「パンチが得意」とか、そんなイメージがあるかもしれないですけど、僕は膝も得意だったんですよ。膝蹴り、ローキックとか普通のミドルキックとか、『K-1』ではあまり使わないですけど、ずっとその練習はしてたんですよ。なので、自分が知っている攻撃なんで、分かるかなっていう感じですね。
もしこの仕事をしていなかったらどのような仕事をしていましたか
今は特にないですね。まあ好きなことをして稼ぎたいですよね。
でも「特になし」ってことは挑戦して何でもやれるじゃないですか。
編集者コメント
K-1 2003年のアルバートクラウスとのリベンジマッチの勝因「相手を分析し、勝算のある道に進む」。これはビジネスと変わらず勝つための根源であり、どの世界でもトップに立つ者は常に分析・比較し、勝つために進んでいると改めて考えさせられました。
また、「今にベストを尽くす」という考えは、当たり前のようで誰しもが当たり前に出来ることではないと思います。だからこそ、様々な経験をしてこの考えに至った魔裟斗さんの言葉には説得力を感じ、改めて仕事への取り組み方を見つめ直しました。
魔裟斗
「クラウスに勝てたきっかけは・・・」K-1で2度世界王者になった魔裟斗。
“反逆のカリスマ”が語る、波乱万丈人生と勝利への歩み方